人格類型論〜個性の輝きと、魂の成長

個性を知識として知る事でどんな利点があるか

「自分の限界」と聞くとどのような印象があるでしょうか?

私は、自由を奪われる様な思考が働く事が多いのですが、実は「自由」を手にする為にはどうしても避けては通れないものだという事を感じます。

例えば、魂が欲していない事…言い換えるならば心の深層が求めていない事を、どうしても人は求めてしまうものですが、本当は「それ」を求める事は自分の真実ではなかったのだ。という、自分の範囲の設定が、限界と言うものの一つの考え方でもあります。

また、本当は魂が求めている事を自分がどうしても避けてしまうとするならば、それはまた、乗り越えられる限界という見方が出来ます。

アクセルとブレーキを同時に踏んでも進まないばかりか、身体と心に負担がかかります。

ならば、限界のうえにある壁を取り除く事から始めないと、という考え方を採用するならば、よりよく生きられるのは間違いないでしょう。

魂の成長

その上で、自分の限界を受け入れ、そして乗り越える為に、自分のパターンを人類に共通の、分類された傾向として知ることは思う以上にパワフルなのです。

 

私が「人格類型論」=「個性の分類」を知った経緯

私が初めて個性の分類というものを知ったのは、通信制の大学に通っていた時の事でした。

そこでは、人格心理学という授業を受ける事が出来ます。私は心理職の資格取得を目指していたので、必須科目という事もあり、履修する事にしました。

教科書の冒頭は、人格というものがどのような階層で出来ているかという事を論じていました。

球体が何層かに分かれていて、核になる部分が「気質」というものです。「気質」と読むと、「職人気質」の様な、揺らがないその人の軸の様なイメージが湧いて来たり来なかったり、様々思い浮かべる事があると思います。気質とはその職人気質のイメージ通りで、「器質」という、その人の身体の構造。そしてそれに根ざした心の方向性など、先天的で変えようの無いものを表しています。

「乱暴で怒りっぽい」「人と交わる事を好まない」「独創的」などのその人の独特な性質も、その気質を核として、周りに積み重ねられて行った「性格」であり。そして、その球体の全体像こそが「人格=パーソナリティ」なのである。という説明がなされていました。

人生とは変化させる事が出来るものだと、正直に言えばそう思い込んでいた私にとって、絶対に変えられない自分の性質がある、という事を知るのはプラスの意味でもマイナスの意味でも衝撃でした。

ただし、この時点ではパーソナリティの分類を論じる事で何の意味があるのか?と実用性を信じていなかったため、この類型論については完全にスルーしました。

 

「エニアグラム」との出会い

二年前の秋に運命的な出会いを果たしました。

宮城県は北仙台でこのエニアグラムを深く学べる講座を開いている「凛樹さん」という方がいます。その方とは、ヒーリングのアチューンメントなどでご縁を頂き、懇意にさせていただいていたたため、何クールか終わっている一連の連続講座を受講する案内を頂き、満を持して講座に参加しました。

…ただ、結論から言うと、その段階ではすぐには答えが出ませんでした。

私は半年間もの間、間違って判別した仮想の自分のタイプ分けを深く学んでしまいました。

私がその当時判別していたのは、思考に偏りやすいカテゴリーの中でも、最も中核に存在している人たちのタイプで「忠実な人」というタイプでした。

しかし、全然しっくりこない。芯を突く様なメッセージが飛んで来ても、心に響かない。など、何かが違う事には気付いていましたが、元々思考に偏りやすい私は直観を信じる事が出来ず、そのまま時間を過ごす事になってしまいます。

忠実な人の隣に「調べる人」というタイプがいて、それが私のタイプだと気付く事が出来た時、その腑に落ち方は半端ではありませんでした。

自分を外側からも内側からも力強く支えている様な、絶対的な支持と受容という感覚。

そこから、色々な自分の問題の内側にある課題が見えてきて、それは正に自分を受け止めた上で自分を変えて行くという大きな人生のミッションに参加するという安心感と興奮も伴っていました。

 

自分の個性の分類を知るツール

先ほど書いた、人格心理学の授業の中で学んだ人格類型論の中には、身体の骨格や筋肉の付き方からその人の性質を類推するという「クレッチマーの類型論」というものもありました。これは、筋肉質、やせ形、ぽっちゃり、という三つの体型で人格を類型するというものです。

これも東洋医学的な考え方から見るとあながち間違っている物とも言えないのですが、エビデンスに乏しいという理由で淘汰されてきた歴史が有るとの事でした。

また、その後前回書いたリハビリ期間中に学んだ「アサーション」というコミュニケーションの考え方の中でも、三つのタイプが論じられています。

これはコミュニケーションの在り方と、陥りやすい失敗を知る上ではとても有益な情報です。

統計学的な占いの多くもまた、人の性質をエネルギー的に見定めたり、類型論の一つでもあります。

グラッサー博士の「選択理論」の本では、「自由の欲求」「愛と所属の欲求」「力の欲求」「楽しみの欲求」「生存の欲求」のバランスがその人のパーソナリティの基盤を作っていて、これもまた変える事が出来ないものだというニュアンスで論じていました。

以前友達から借りた数秘術の本では、生まれた日にちの数字から、その人の性質を鑑みるという知識も載っていました。

まずは、自分を深く知る為に。自分を内省する手がかりをする為に、何か一つでも知識として仕入れてみてはいかがでしょうか?

 

※血液型類型論の新しい見解

血液型もよく当たると言われていますが、これもエビデンスに乏しいのが実情で、実はこれだけ実証されていない類型論がもてはやされているのは日本だけだという話も聞いた事があります。が、真偽の程は確かではありません。

しかし、人格の類型とは別の話なのですが、一つだけ面白い見解があったので紹介したいと思います。

そもそも、アフリカから世界に広がって行ったとされている人間という種の中で最初に生まれたのはO型だとされています。その頃、人々は狩猟の生活を主にしていて、肉食が多かったとの事です。そこから東に広がって行くと、そこでは放牧を行っていました。乳製品を主に摂っていたのですが、伝統的に乳製品は発酵食品と関係があるとの事です。ちなみにこの時生まれたのがB型ででした。日本人に多いA型は、一番最後に生まれた人々で、菜食を主とする人々で構成されていました。

そして、その時の食事の摂り方が、血液にも情報として乗っているという考え方でした。

化学の毒も恐ろしいですが、蛇の毒や毒草などの自然毒もやはり恐ろしい威力を持っています。

食べるという事は、栄養を手にするという事ですが、反面、食事に含まれる自然毒も身体に取り入れる事を意味します。

血液型の類型から、その自然毒の分解酵素の血液中の配合濃度が、その血液型で生きて暮らしていた人々の食事の在り方の影響を受けていて、現代の人々に引き継がれている…というものです。

例えばO型の人は「MEC(MEET,EGG,CHEESEの頭文字をとっている)食)に適していたり、B型の人は、「菌活」に適していたり、A型の人は「ビーガン」としてやっていくのに適していたり、AB型の人は、その二つを併せたら良い結果が得られる…と言う事が言えるという見解でした。

どこまで実証されているのかが分からないので、真に受けるかどうはその人の責任だとは思いますが、何となく知的好奇心をくすぐられたのは言うまでもありませんでした。

 

自分自身の個性を知る事は、人生における負けパターンを知る手がかりになる

私の例を挙げるならば、(エニアグラムで)思考に偏りやすいタイプの一つで「調べる人」

ならば、そもそも人と交わる社交的な人になりにくい、という記述があります。それを認めると、まずはいきりたって何か自分の本質が求めない、別のものに、力んでフォローするという事がやめられました

しかし、人として生きているからには、完全に社会から断絶して生きていてもそこには真の喜びはありません。

そして、本来、人と繋がりたい思いがあるのに、どうしても避けてしまうのは、そこに何らかの恐れとしてのブレーキがあったからでした。

取り除いて、フランクに人と交流してみると、いろんな学びと、そこから自分の本当の問題を解決していく道が拓けて行き、心を解き放った(魂の輝きを解放できた)心地よさがありました

(ちなみに、前回の記事の最後に書いた事は、この知識から得たものをお伝えしました。解決の方向の間違いの傾向という事が、自分の中でも釈然としたためです)

人生を作って行く上で、出来る事は沢山あります。

そして、その先にある個性の輝きは、周りを神々しい光で明るくまばゆく照らしてくれる事でしょう。

そんな自分になれるんだ!という予想を持った上で座学を実際の生活に活かして行くと、結果が出てきます。

個性を知るという事は、決して自分を深く掘り下げて、そして知的好奇心を満たす…という事だけで終わるのではなく、自分をもっと良い方向に持って行ける指針を知るという事なのだと思っています。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

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